アムステルダムは古くから港町として発展してきた街で、現在では170を超える国籍の人々が暮らしています。当サイトでは4ページに渡って特集しておりますので下記からご覧ください。こちらのページは「アムステルダム②アンネ・フランクの家」になります。
「アムステルダム②アンネ・フランクの家」徹底ガイド:目次
アムステルダムには多くの見どころがありますが、ここは外せないという12ヶ所を厳選しました。こちらのページでは緑のアイコンについてご紹介します。アイコンをクリックすると名前と写真が表示されます。
「アンネの日記」で有名なアンネ・フランクが家族と共に2年間隠れ家生活を送った家で、現在は博物館になっています。アムステルダムで1・2を争う人気観光地なので事前の予約が必須です。
ハイシーズンなどは1ヶ月以上前に予約が必要になってきますので注意してください。入場時に無料の音声ガイド(日本語)を借りることが出来ます。
■1940年のアンネ・フランク
アンネは1929年6月12日にドイツのフランクフルトで生まれます。1933年にナチスがドイツで政権を掌握すると、ドイツのユダヤ人達は続々と国外へ亡命していき、アンネも1934年2月にアムステルダムへ亡命しました。
1942年になるとドイツはユダヤ人狩りを強化し、1942年7月15日には、ついにアンネの姉マルゴーにナチスからの召集令状が届きます。当時、すでにアウシュビッツ強制収容所は稼働していて「ユダヤ人はポーランドに送られた後に殺される」と報じられていたため、アンネ一家は事前に父親が造った隠れ家に移動します。
こちらが現地で、右側の建物がアンネの家になります。
建物は運河に面していたのですが、このような立地の建物は多くが下の模型のような造りになっていました。
photo by:Alexisrael
左側に運河や道路があり、青で囲んだ部分が道路に面しています。右側の建物は一般に「後ろの家」と呼ばれ、道路側からは全く見えないことになります。
アンネの父は元々この「後ろの家」の2階部分をオフィスにしていました。緑で囲んだ3・4階部分は倉庫として使われていたため、ここを隠れ家に造り変えて、赤で囲んだ本棚で入り口を隠して住み始めました。
内部はこのような作りになっています。
出典:公式Facebook
上の細長い部屋がアンネとマルゴーの部屋です。内部は撮影禁止ですが、アンネの89歳の誕生日にあたる2018年6月12日に、部屋の中が再現されたVR映像が作られたので興味のある方はご覧ください。
アンネはここで約2年間ヒッソリと暮らします。カーテンを開けることは出来ず、昼間は極力物音をたてず、トイレを使用出来るのも早朝か夕暮れ以降でした。そして、この生活の中で書いたのが「アンネの日記」です。
photo by:Rodrigo Galindez
写真の実物はベルリンの「アンネ・フランク・ツェントルム」に展示されています。アンネは日記の中でこのように書いています。
~自分でも不思議なのは私がいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実離れしすぎていて到底実現しそうもない理想ですから。にもかかわらず私はそれを待ち続けています。なぜなら今でも信じているからです。たとえ嫌なことばかりだとしても人間の本性はやっぱり善なのだと。~
1944年7月15日
「アンネの日記」は、このあと7月21日に記載があり、そして8月1日を最後に終わります。3日後の1944年8月4日に発見されてしまったからです。
収容後のアンネ
■アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所
アンネ達は「ヴェステルボルク収容所」で約1ヶ月過ごしたあと、1944年9月3日にアウシュビッツ行きの列車に乗せられ、3日後の9月6日に到着します。アウシュビッツの詳細については「アウシュビッツ②2つの収容所」をご覧ください。
アウシュビッツに到着した人々は、到着と同時に「労働者」「人体実験用」「価値なし」のどれかに選別されます。「価値無し」になると即座にガス室に送られて殺されるのですが、アンネ達は「労働者」に分類され、そこではかろうじて生き延びることができました。ただ、父親とはここで今生の別れになってしまいます。
■アウシュビッツの女性たち
そして10月28日、ソ連軍の侵攻によりアウシュビッツ撤収作戦が進められる中で、アンネとマルゴーは母と切り離され「ベルゲン・ベルゼン収容所」へと移送されます。ドイツの10月ですから相当気温は低いと思われますが、そのとき2人は痩せこけた裸の状態で丸坊主という姿でした。それは収容された人に共通する姿でもありました。
■ベルゲン・ベルゼン収容所
ここでアンネは共に隠れ家生活を送っていたアウグステ・ファン・ペルスや、親友のハンネと再会することが出来たそうです。しかし、非常に不潔な収容所だったこともあり、アンネとマルゴーは共にチフスにかかり2・3日違いで亡くなります。正確な日付は分かっておらず、オランダ赤十字は1945年3月31日を死亡日としています。
そして、このたった2週間後の4月15日。ベルゲン・ベルゼン収容所はイギリス軍によって開放されます。こちらはそのときの女性たちです。
この女性たちは収容されたばかりだったのか、このように立って笑顔を見せることができていますが、イギリス軍が到着したとき、そこには13000人の遺体が横たわっていて、さらに6万人のやせこけた囚人がいたそうです。
■遺体を運ぶイギリス兵
ベルゲン・ベルゼン収容所にはアンネとマルゴーの記念碑があり多くの人々が訪れています。
photo by:Paalso Paal Sørensen 2009
以上になります。続きまして下記から他のページをご覧ください。
アムステルダムは日本語で予約出来る現地ツアーも多くあります。詳細はこちらからご覧ください。
■オークアレイ・プランテーション(アメリカ) |
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ルイジアナ州にあり、南北戦争時代の奴隷の生活を垣間見ることが出来ます。「奴隷の価格表」は非常にショッキングです。詳細は下記からご覧ください。 | |
■ゴレ島(セネガル) |
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世界に19ヶ所登録されている「負の世界遺産」の第一号で、15世紀半ばから19世紀初頭まで「奴隷貿易の拠点」として使われていました。詳細は下記からご覧ください。 | |
■頭蓋骨の塔(セルビア) |
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セルビアとオスマン帝国の戦争の中で造られた負の遺産です。街の中心地からさほど離れていない場所にあり、セルビアでは人気の観光地になっています。詳細は下記からご覧ください。 | |
■アウシュビッツ(ポーランド) |
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言わずと知れた人類史上最悪の負の遺産で、20万人とも400万人とも言われる犠牲者を出しました。ドイツではなくポーランドにあります。詳細は下記からご覧ください。 |
航空便例 | 日本-アムステルダム(約12時間) |
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ベストシーズン | 4月~8月 |
外務省 | 海外安全情報 オランダ |
ガイドブック | オランダのガイドブック |
ビザ | シェンゲン協定加盟国。あらゆる180日間の期間内で90日以内の観光、業務目的の滞在はビザ不要。 |
パスポート残存期間 | シェンゲン協定加盟国からの出国予定日から3ヶ月間以上。未使用査証欄2ページ以上。 |
時差 | 夏:-7時間/冬:-8時間 |
チップ | ・タクシー:10~15%
・レストラン:基本的には不要 |
日本への電話 | 00(国際識別番号)と81(日本の国番号)をつけて、市外局番(東京:03など)や携帯電話の090などの最初の0を取る。
例)03-9999-9999へかける場合 |
現地で使えるオランダ語 | ①おはよう。
Goedemorgen.(フッデモルヘン)
②こんにちは。
③こんばんは。
④ありがとう。
⑤さようなら。
⑥はい・いいえ。 |
電圧とプラグ | 230V
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通貨 | ユーロ(通貨コード:EUR、記号:€)で補助通貨はセント(¢)。1ユーロ=100セント。
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日本大使館 | ・HP |
オランダの見どころ一覧 |
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